私の人生≒関ジャニ∞

関ジャニ∞

紛れもなく私の人生の柱になったグループ

私には姉が2人いて、ことの発端は1番上の姉がジャニーズにハマったことだ
堂本剛さんがアイドルの初恋と聞いたことがある
姉がのめり込むと同時に母も付き添いでおのずとのめり込んだ

私はいわゆるジャニーズ英才教育系家庭出身になった
家ではKinKi Kidsや嵐の曲がしょっちゅう流れ、
TVのチャンネルはジャニーズ出演番組が最優先だった

幼少期、セーラームーンおジャ魔女どれみ明日のナージャプリキュアにのめり込みつつ、週末の特別なおでかけはディズニーランドかジャニーズのコンサートだった
幼稚園の先生にもよく好きなジャニーズを聞いていた

姉に好きなグループが出来ると、大概集合写真を見せられ、「どれが好き?」と聞かれた。
"りょうちゃん"にハマった姉にNEWSを見せられた私は山Pを選んだ。
ピンクが好きな私に、姉はメンバーカラーピンクなのは内くんだよと教えられ、じゃあ内くんも好きと言った。好きなキャラを色で選ぶのと同じだ。
今だにマゼンタのようなドピンクを見ると内くんの色だなぁと思う。
自分の中で残っている1番古い記憶は、近所にあった、黄色いシャツを着たNEWSのMyojoの看板を幼稚園の帰りに友達と毎日「山P!」と指差していた。
戦隊モノにハマる女友達は居たが、私のハマったヒーロー(?)は草NO!マンだった。周りの認知度は0。

2003年〜2004年
私がプリキュアラブandベリーに明け暮れていた頃、姉は“エイト"を好きになったらしい。
例の如く、誰が好き?と聞かれた私は、りょうちゃんとウチくんしかわからないから「りょうちゃん」と答えると、姉に「真似しないで」と叱られた。

本当はピンクが好きなくせに、「水色を選ぶ方がぶりっ子じゃない」「ベリーの方がお姉さんでおしゃれ」みたいな、その年代のよくあるやつで水色を選ぶようになっていた私は、やすを選んだ。
これが今後20年経っても好きでいる選択になるとは思いもしなかった。

「エイト」しか知らなかった私が「関ジャニ∞」であると認識したのがいつなのかはもう記憶にない。
おそらく「関ジャニ」と呼ぼうものなら姉に睨まれていた気がする。

幼稚園の頃は頻繁に行けていた嵐のコンサートは、いつの間にか母と姉だけが行くようになり私は行けなくなった。
代わりにNEWSのコンサートに連れてってもらえるようになった。
エイトの現場大阪でしかなく姉がよく嘆いていたが、流石の母も中学生に遠征は許さなかった。

2005年夏
朝起きると姉と母が阿鼻叫喚していた。
当時私は何があったのか何も理解できていなかったが、内くんが休まなきゃいけなくなった。
NEWSで何人か抜けたのを見ていたので、内くんももう戻って来れないんだろうと幼ながらに理解していた。
当時の色々を姉と母は調べて知っていただろうが、
詳細は7歳の私には語られることは無く、数年後自分で調べることになる。
姉が「意味わかんない」「○○が」等々泣きながら叫んでいたのは記憶に残っている。

私も姉も8人の関ジャニ∞に会うことは叶わなかった。

デビュー直後以降関ジャニ∞は東京に来なかったが、Mステや少クラを見まくり、出されるシングル曲の振り付けをテレビの前で沢山踊った。

2006年
(多分)初めて関ジャニ∞のライブに連れて行ってもらえた。
代々木第一体育館のコンサートを皮切りに、以降、横浜アリーナに足繁く通った。
ラーメン博物館に行ってラーメンを食べて、夜公演に入ったり、昼公演を見て、ラーメン食べて帰る。
関ジャニ∞のライブとラーメン博物館はセットだった。

幼少期のコンサート参戦は、席が近いかどうかよりも、席の近くによく見える画面があるかが最優先だった。
席に行くと大概周りの大人に話しかけられ、
誰が好きなのー?と聞かれ、ヤスです!と答えると結構な割合で驚かれた。
何で驚くんだよ。悪いか。と心の中で思っていた。

大人の中に埋もれ、パイプ椅子の上に立って母の肩に捕まりつま先立ちで見たり、どうしても見えない時は抱っこしてもらう。
疲れたら近くの画面をぼーっと見る。
勿体無いことに、正直大人達の大きい背中が目の前にずらっと並んでいる記憶ばかり残っている。
曲の意味もわからずペンライトを持ってただただ知ってる曲を踊り狂っていた。

ヒナの「こどもエイター声出てるかー!?」の呼びかけは、いつも必ず周りの大人達全員が自分の事を見るので怖さと恥ずかしさで声が出せなかった。
母親には声出しなさいよ!今しか出せないんだから!と毎回言われていたが、そんなん知らんし、という気持ちで毎度その時間が正直苦手だった。
早く大人になりたかった。

2006年冬の横浜アリーナ
席に着くと花道の最前列だった。
人生初の最前列、本当にここに立つの?なんて思ってワクワクしながら開演を待った。
会場が暗くなり、コンサートが始まる。
場内の花道各所にメンバーが登場し会場が沸き立つ
ドキドキしながら花道を見ていると、
ドン!と目の前に安田くんが登場した。
金髪でもっこもこの豹柄に紫のもじゃもじゃのついたローブを着てサングラスをかけてオラついていた
びっくりしすぎて当時の記憶は鮮明に残っている。
最前列にいる子供は目立つのか、ヒナやよこがよく手を振ってくれた。

2007年5月 横浜アリーナ
コンサートグッズを購入すると母に会場裏の駐車場に手を引かれて行った。
入場前にここで待機させられることもあったため、もう並ぶのー?と言いながら向かった。
続々と人が集まる中、まだ入れないのー?と母親に文句を言っていると、いいから待ってなさいと怒られた。
不貞腐れていると周りがザワザワし始め、カンカンカン!と階段を登る音がした。
ツアートラックの上に関ジャニ∞が登場した。
47都道府県ツアー皮切りの記者会見だった
特攻服にサングラスをかけたメンバーがトラックの荷台の上に立って写真撮影をしていて、多分トラックにサインもしていたと思う
母からのまさかのサプライズ(?)に困惑しつつ大興奮でコンサートに入った。

47都道府県ツアーは母の実家が島根だったので島根公演にも参加した。これまでで見たことのないくらいの人数の女の子(何歳が言ってんの)が島根に集まり、普段ガラガラのバスがぎゅうぎゅうに詰まっていた事に衝撃を受けた。
ずっと1万人規模のアリーナで見ていたから、
1500人規模の島根県民会館の大ホールで見た時に、松竹座ってこういう感じなのかなって感覚だった。
席は2階席の真ん中通路の後方最前列中央。
ライブ中盤にメンバー全員が登ってきて目の前を通ってくれた。
母と姉はブギTを作って入ってて、それが目に入ったヨコが手に持っていたサインを手渡しでくれた。
漫画で見るようなファンサを母親が受けている事が信じられなかったけど本当にそれしか記憶がないくらいに衝撃的だったし、その夜母は後にも先にも見たことないくらいお酒飲んで酔っ払ってた。
私は手を出してヨコに握手をしてもらう順番待ってたんだけど、姉→私を飛ばして→姉が握手してもらって、多分視界に入ってなかったんだろうけど、してもらえなかった自分の手を呆然と見てたら後ろから来たマルちゃんが握手してくれた。
安田くんはというと下段側にずっとファンサして歩いていて、姉と共に一生懸命名前を呼んだけど振り向いてはもらえませんでした

8月迎えた東京ドーム
見れるとは思ってなかった8人での姿
会場がどよめき歓喜に沸いて、その時母が即座に抱っこして見せてくれたのを今でも覚えてる。
感動の具合は正直子供だから理解できてなかった部分もあれど、あんなにみんなが幸せそうな瞬間って人生でなかなか体験できなかったなって思う。

2008年
これまでも確実にエイトを好きでコンサートに行っていたけど、正直大好きだー!っていう明らかな自我が出た年なきがする。10歳、小学生4年生。
グッズを買ってもらう時、毎度1つだけ買ってあげるねって言われてグッズを買ってもらっていた。
この日も1つだけと言われ、エイトレンジャーのポーチを筆箱にする!と言い買ってもらう。実際そうして使っていたが、さすが小学生というところはポーチの後ろにデカデカと名前ペンでフルネーム書いていた。今思うと最悪。
この頃にはパイプ椅子に乗らないと見えないけど、乗ると大人より背が高くなるから中腰で見たりしていた。

2009年
関東のライブが東京ドームだけになった。
横浜アリーナとの別れだった。
東京ドーム1階スタンド中列の3塁側画面のほぼ真下、通路横の席で見たのを覚えてる。
小5で背の順が後ろから数えた方が早い。
椅子に立たないと背中しか見えない、けどドームの椅子に立って後ろの人が許せるような身長ではない、メンバーは豆粒。自分の斜め後ろに建てられた画面をずっと見て、テレビ見に来たんじゃないのにななんてふてくされてた。物理的な距離のせいで関ジャニ∞が少し遠く感じた。
年末の初単独カウコンは姉と母が行くのを見送り、もう1人の姉と家でテレビを見ていた。
今見てもあの初単独カウコンのセトリは羨ましい。

2010年
小学6年生
8UPPERSの映画館上映を見に千葉県市川市のイオンまで行った。席は1番前の端っこだった。
難しいところや細かい設定はまだ理解出来てなかったけど、とにかくかっこよくてまだ見ちゃいけないものを少し覗いている気分になった。
コンサートは東京ドーム2days
2階スタンドの中列で見て、アニマルマジックで歌いながら上まで上がってくるエイトがかっこよくて、ただ下からエイトを照らすライトが眩しくて若干見づらかったのも覚えてる()
楽しみにしていたウインクキラーはまさかの2日間とも安田くんを引く強運さを発揮しました。
あと、「こどもエイター」からの卒業だったので、あんなにすごく恥ずかしくてたまらなかったコールだったけど、今まででいちばんの声で応えた。
そういえば、今や定番の横山さんへ言う「フゥ〜」の煽りが生まれたのはこの公演だった気がする。

関ジャニ∞が1番で過ごした小学生時代、
最初は関ジャニってなに?って状態だったのが、少しずつ名前が広がって、何で好きなの?どこが好きなの?おじさんじゃない?とも言われつつ、学年で1人2人関ジャニが好き!って子ができた。コンサートに行くのは自分だけで、コンサートに行くのは当たり前じゃないんだなと実感した。
小6〜中1辺りで、大倉くんかっこいいねって言われるまでにたどり着いた時は心の中でお前全否定してたよな?とも思いながら勝った!とガッツポーズした。

2011年、中学に入ると一気に世界が広がった。
関ジャニ∞を知っている人がたくさんいたし同じくらいの熱量でファンの子もいた。
アメブロツイッターを開設して、ネット上で同年代も年上も、色んなファンの人と交流をした。
自分の世界が広がると同時に、関ジャニ∞の活動の幅も大きく広がっていく気がした。
24時間テレビ5大ドームツアー、国民的位置へ登っていくのを目の当たりにして、ファン層もより多く、厚くなっているような気がした。

2012年、迎えた8周年
想像の何百倍もお祭り騒ぎだった。
エイトレンジャーの映画化、∞祭でのライブ・トーク・展示、初の野外スタジアム公演、を経たドーム公演、本人役ドラマ、、、、、これまでの道のりは長く長く感じたけど、デビュー8周年という名前にかけたお祭り騒ぎをここまで全力で盛り上がったのは本当に凄いと今でも思う。
個人的に中学が一貫校で中2を8年生と呼ぶ学校に通ってたから、それもまた嬉しかった。

その後も中学卒業、高校でのオタ友との出会い、初めて友達と入るライブ、制服参戦、高校卒業、ずっとそばに関ジャニ∞がいた。たくさんライブも行って、いっぱい思い出の曲ができた。
毎日通学の音楽は全部関ジャニ∞だった。
関ジャニ∞しか聞かなかった。

大学入学、バイトを重ねて初めて自分で稼いだお金で安田くんの舞台「俺節」に行った。本当に本当に楽しくて、毎週赤坂ACTシアターに通った。
ライブで初めて遠征もした。
2年生になった時にすばる脱退、安田くんの病気や怪我を知って、全てが崩れ落ちるような感覚に落ちた。
直前に大阪旅行に行って色んなロケ地を巡った。
6人のツアーを見て6人に夢と希望を持った。
最高の15周年を見守れた。
短大を卒業して、半年間自分の夢を追い、就職した。立て続けの脱退、コロナ禍や自分の気持ちの問題や47tour落選、何より今の自担の活動などもあり関ジャニ∞をテレビでは見る程度に距離を置いていた。(というか、大変失礼な話ではあるが、人生を捧げた自担を降りるために一時無理矢理滅茶苦茶嫌いになって降りた。)

2021年、アリーナツアー8BEATも落選した。
横浜アリーナ公演直前、事務所がコンサートの集客を100%に引き上げた。制作開放席で2公演呼んでもらえ、アルバム曲をほぼ知らない状態で入った。
2008年以来、13年ぶりの関ジャニ∞横浜アリーナ公演だった。(ラーメン博物館は行かなかった)
アリーナでやる規模じゃないどでかいステージ装置に思わず笑ってしまった。安田くんの歌やダンス、何よりもギターは相変わらず世界で1番大好きなものだった。ただ、勉強不足が故にやっぱり私は離れてしまった人間なんだなぁという気持ちも生まれた。

2022年 18祭
初の日産スタジアム 初日に土砂降りに振られ、やっぱり関ジャニ∞だなと笑った。ただ公演中だけは少し雨が弱まっていたのは、天が味方につき始めてる気がした。
思い出でいっぱいの曲がたくさんで、ジャニーズメドレーでは安田くんが自担のパートを担当し、自担の位置で踊り、自担のキラーパートを担当して妄想でも見ているのかと思った。
翌日、浴衣をレンタルしてめちゃくちゃ着飾って行ったらアリトロ最前に入れた。天気もめちゃくちゃ良くて、本当に本当に幸せでいっぱいだった
この二日間で一気に関ジャニ∞に引き戻された。
土砂降りでも浴衣でも関係なく狂ったように踊りまくって、最高に楽しかった。
私が離れた期間は本当に最前線で見守ってきた人たちにしかわからない大変な期間だったと思うし、その人たちにとっては私は煙たがられるような存在かもしれないとも思ったけど。
冬のドームも、昔から夢に見てたクリスマスの名古屋ドームに行き、年明けの公演が福岡じゃなくて東京で喜んで足を運んだ。もうとにかくとにかく楽しくてたまらなかった。

2024年2月3日。
名前が変わります!と言われた時、本当に悲しくてたまらなかったのに、時間と共にぼんやりと、本当に変わるのかなぁって変わることの現実味がなかった。
でももうそんなことも言ってられない、あと3時間。

サブスク解禁でここ4年くらいほとんど聴いていなかった関ジャニ∞の曲を聴き漁り色んな思い出と新しい発見をした。

積み重ねてきた歴史が1つのエンディングを迎える。
決してグループは変わらないしこの歴史も全て新しい名前になっても当たり前だけど関ジャニ∞(仮)の物なんだけど。

ここまで書いてきたように紛れもなく関ジャニ∞は私の人生だった。
関ジャニ∞を聴いて、コンサートに行って、歌を聴いて、演奏を聴いて、見て、MCでゲラゲラ笑って(時々母親に耳を塞がれたりして)、テレビを見て、友達と共有して、なんかもう、いまアイドルオタクである全てが関ジャニ∞で身につけた。

この1週間本当に本当に悔しいとか寂しいとか悲しいとかの気持ちで頭かきむしりたくなったりもしたけど、でも、関ジャニ∞の葛藤も新しいグループ名が決まった経緯も知って、新しいグループ名が楽しみな気持ちも、これからさらに加速していく20周年が楽しみな気持ちもめちゃくちゃあって、それが今は前者の気持ちよりも大きい。

関ジャニ∞もあと3時間。ありがとう。大好きです。
お疲れ様でした。いまこうして予測変換に登録してなくても出てくる事が本当に誇らしい。
新しいグループ名はまずユーザー辞書に登録することになるのかな。

関ジャニ∞もまだまだ心の中で生き続けるけど、
まだ知らない新しいグループ名、よろしくお願いします。
私がまだXをTwitterと呼ぶように、変わっても葛藤なんて世間は知らずに関ジャニ∞と呼ぶだろうけど、絶対にひっくり返るよね。セキジャニムゲンダイでも患者二でもなく関ジャニ∞になったもんね。

20周年おめでとうございます。

新しいグループ名さん、よろしくお願いします。